【学童保育の選択】親の都合?子どもの成長?
娘の小学校時代を振り返ると、学童保育での生活は、小学校の生活と同時に大切で、2つの学校に通っているような形でした。
学童保育の選択は、親の都合で利用せざるを得ないという面も確かにあるでしょう。その良し悪しは、指導員の力量によるという批判もあるかもしれません。
娘の場合は、いまだに、その時のことが話題にのぼるほど、学童保育は、価値のある体験を得られた場であり、一生の思い出として残るものとなりました。
学童保育のメリット
学童保育は、娘にとって楽しい活動の宝庫でした。
学年の違う交わりを経験し、集団活動の基本を学びました。
けん玉大会、じゃが餅づくり、よもぎの葉から作った草餅、お楽しみ会、お泊り遠足、展覧会のお手伝いなど、学童のお友だちと一緒に、様々なことを学び、放課後は楽しい時間となりました。
学童保育のデメリット
「小1の壁」という言葉をよく聞きます。これまで保育園で6時頃まで預かってもらい、勤務先から迎えに行くことができました。
しかし、小学校入学後は、子どもひとりでの留守番を経験させざるを得なくなりました。
小学校が終わると、学童の仲間と一緒に下校し、学童へ向かいます。学童が終わると、一人で自宅に戻っていなければなりませんでした。
保育園のように、親が迎えに行く生活はなくなりました。
ある日、娘が途中で鍵を落としてしまい、家に入れずにいると、学童から勤務先に連絡が来て、慌てて帰宅したこともありました。
また、ある時は、窓に手をつっこんでケガをしたと連絡がきたこともあります。部屋の中で、追いかけっこをして遊んでいたそうです。
今の恥ずかしがり屋の娘からは、想像できないほどのおてんばでした。
2つの学校の同時進行は、親にとって行事参加やお手伝いの負担を背負うことでもありました。
また、学校生活同様、集団生活である学童も、ケガや病気の危険を伴うことになりました。
学童保育は小学校4年生まで
学童保育で預かってもらえるのは、小学校4年生まででした。
小学校5年生からは鍵っ子で、両親が帰宅するまで留守番です。たいてい、友だちは、習い事や塾に通わせていたようです。
でも、うちでは、送り迎えができなかったため、どこにも通わせることはできませんでした。
娘は、近所のお友だちと、いつも一緒に遊んでいて、ひとりでいることはなかったようです。それぞれのお友だちのスケジュールに合わせ、遊び相手を曜日ごとに決めていたので、困ることはなかったのでしょう。
娘なりに、どうしたら留守の家にひとりでいないですむか、自分で工夫していたのです。
私の方は、仕事から帰ると、夕食づくりの合間に、宿題を見てやったりと忙しかったのですが、娘にとっては、一生涯忘れることのできない小学校時代だったと思います。
海外への引っ越し
娘が小学校6年生になったばかりの頃、夫の仕事の関係で、海外に行かなければならなくなりました。
夫が単身で行く選択もあリました。
夫の移動先での生活が整った段階で、私と娘の2人が遅れて行くという選択もありました。
しかし、夫との話し合いで、家族全員で移動することを選びました。
私と幼い娘を残し、遠くに離れて生活することに不安がありました。私の勤務に関しても、今後、辞めることを前提とした状況では、勤務しづらくなるかもしれないという懸念もありました。
その土地を離れる時、私ひとりですべての引っ越し準備、処分が可能かという心配も重なりました。
それらの事情を考慮し、家族そろって海外移動を決めたのです。
その当時の選択には、娘にとって何が一番いいか、娘の希望することは何かに対する考慮が、完全に抜け落ちていました。
離れて暮らす私の両親も、ショックを受けたと思います。
卒業できずに転校
海外で実際の生活を始めてみて、この選択は大きな後悔につながってしまいました。
娘は、現地の学校に全く馴染めませんでした。生活も習慣も文化も異なる世界に飛び込む事態を、受け入れることができなかったのです。
娘にとっては我慢の連続、悲しい思いしかありませんでした。
日本人学校へ転入
しばらくして、学区が違い、かなり距離はありましたが、日本人学校に移すことに決めました。
娘と同学年の子どもは在籍しておらず、全校で数十人ほどの小規模校でした。
こちらの学校も、娘にとっては期待通りのものではなく、最初の一週間は泣いていました。
それでも、少しずつ友達もでき、先生方とも親しくなって行きました。
6年生ということもあって、責任の伴う役も与えられ、元気に登校するようになりました。
中学校の途中で帰国
2年ほど経った頃、父が倒れ入院しました。
急きょ、私は娘や夫と離れ、帰国することとなりました。父の亡くなった後は、母のこともあり、娘も夫も日本に戻り、実家で生活することになったのです。
移動に関する後悔
娘の学校を第1に考えていたら、私と娘は日本にとどまり、そのまま小学校を卒業し、中学校へ入学できたはずでした。
娘にとっても、親にとっても、一番残念なのは、保育園時代から小学校5年生まで一緒だった友達と、卒業式を迎えられなかったことです。文集もアルバムもありません。
長年親しくしていた多くの友だちと別れ、有無を言わせず、海外に連れて行かれた娘の気持ちはどんなだったのでしょう。
なぜ、娘の気持ちに少しでも寄り添う決断ができなかったのか。
過ぎてみれば、夫が数年単身で移動することだけで済んだはずだったのです。
夫の去った後の自分の大変さしか意識になかったのかもしれません。
一つの選択が、次の運命を作っていく。選択の連続で、人生が方向付けられて行きます。
娘にとって、日本人学校での生活は、決して悪いことだけではなかったと思います。
しかし、親の選択で、辛い思いをせざるを得なかった娘に対して、私の心に後悔が残ります。
弟ができるよ! 娘は涙
娘が小学校低学年の頃、「お母さん、 きょうだいが欲しい」と言われたことがあります。
学童保育に行っていたので、友だちはたくさんいたのですが、 その友だちはみんなきょうだいがいたので うらやましく思ったのでしょう。
子育てと仕事の両立は無理
その頃は、ちょうど仕事が忙しくなり始めた頃でした。それに、娘 ひとりだけでも、とても大変でした。
子供は2人欲しいと思ってはいましたが、今、子ども2人になったら、やっていけないと考えていました。
40歳過ぎて第2子がほしい
40歳を過ぎた頃になって、ようやく2番目の 子どもが欲しいと思うようになりました。
子どもが欲しくなれば、いつでもできると年齢のことをあまり気にしませんでした。
しかし、後になって40を超えてからでは、卵子の状態が悪くなり、妊娠しにくいということを知りました。
もう年齢的に遅すぎたとあきらめかけた頃、奇跡的にお腹に赤ちゃんができたのです。
娘に、弟ができると伝えたら
安定期になり、娘に伝えることにしました。過去には、きょうだいがほしいと言っていたこともあり、さぞ喜ぶだろうと、私も夫も、娘に話すのが楽しみでした。
娘の心境
「弟ができるんだよ」と話をすると、 その途端、娘は泣き出しました。
思いがけない娘の反応に、私たちはびっくりしました。 てっきり喜んでくれると思ったからです。
「弟はいらない、自分ひとりがいい」と言うのです。
その晩は驚きましたが、娘の気持ちを考えてみました。
娘は、自分はすでに大きく成長し、赤ちゃんが生まれたら、両親の心が自分から離れてしまうと思ったようです。
弟と対面
実際に、小さな赤ちゃんと対面すると、娘は、とてもかわいがり、そばから離れなくなりました。
抱っこしたり、ミルクをあげたり、友だちを呼んで、赤ちゃんを見せたりしました。
仲の良いきょうだい
ずっと仲良しで、いつも2人で行動するようになりました。娘の友達からも、弟は大人気になりました。好きな音楽も映画も、二人一緒になりました。
娘とのひな祭りの写真
娘が一枚の写真を見せてくれました。
実家の部屋から見つけたそうです。私は、まったく思い当たりませんでした。いつの間に撮ったのか、記憶にありません。
娘は、幼稚園か小学校一年生くらいだと思います。着物を着て、ひな壇を背後に、ちょこんとお行儀よくすわり、ニコッと笑っています。その様子を横で、私が笑顔で見ている写真でした。
よく見ると、娘の着ている着物は、私の小さい頃のものでした。
娘は、髪を上げて、後ろで結んでいるようです。幅の広い帯もきちんと結ばれていました。
着付けができるのは、私の母しかいません。初めて着る着物を、おばあちゃんに着せてもらって、さぞ嬉しかったでしょう。
母の姿は、そこには写っていませんでした。その頃は、父もいたはずです。
たぶん、私と娘がおひなさまを背景に、向かい合ってすわっている様子を、きっと、おじいちゃんとおばあちゃんはそろって見ていたのでしょう。
娘は、ちょっと恥ずかしそうにも見えました。そして、この写真は、夫がそっと撮ったに違いありません。
娘も私も、ポーズをとっているわけではなく、とても自然な感じです。
おじいちゃんもおばあちゃんも、孫が訪ねて来るのを楽しみにして、ひな壇を飾って待っていたのでしょうね。
もう戻らない貴重な時間
娘が、祖父母と過ごした短い期間を象徴するかのような一枚の写真でした。
私の結婚に父母は反対し、海外で生まれた娘に会ったのは、私たち家族が帰国したときです。娘は、3歳を過ぎてからでした。
それ以降、たまにお休みのときに実家に戻る程度でした。
今はもう、ひな壇を出して飾ることもありません。ひな祭りどころか、クリスマスもお正月も、母が亡くなってから、だんだん普段と変わらない日々になりつつあります。
母がいるときは、必ず、クリスマスツリーを飾り、クリスマスソングをバックミュージックにして、みんなで乾杯し、ケーキを食べました。
お正月には、玄関に、しめ飾りや鏡餅を飾り、おせち料理を食べました。子どもたちは、おばあちゃんからお年玉をもらうのが楽しみでした。
年中行事も、そっけなくなっていく
親戚づきあいもほとんどなくなり、子どもたちが成長するに従って、家族一緒の時間さえ取れなくなって行きます。
クリスマスもお正月も、子どもたちがいるから、おろそかにはできないと思ってきました。
しかし、母が亡くなってみて初めて、母の存在があったからこそ、おばあちゃんと過ごす特別な日が必要だったのだと気がつきました。
まとめ
娘とのかかわりを振り返ると、それは同時に、夫や父母、そして妹や妹の家族、私のまわり、すべてのかかわりを思い起こすことになります。
唯一、父母の過ごしたこの実家で一緒にいることの多かった娘も、今は海外で就職です。
何気ないひとときが、貴重な人生の想い出として残るものだと実感しています。