はじめに
長男の嫁という立場で、母は、苦労を重ねました。一方、田舎の生活の中で、私妹には、かなり教育熱心な母でした。
母が要介護になり同居してからは、 様々なことがありました。子育てと介護が重なって、ストレスを感じた時期でもありました。
段階的にゆっくり認知症が進行していきましたが、 長期間、面会できなかったコロナの時期は、その影響を受けました。
父のような思いはさせたくないと、延命措置は 断っていました。 最後は穏やかに亡くなりました。
介護施設を選ぶ際に必要なこと
長く高齢者医療にかかわってこられた和田秀樹氏は、介護施設の利用をすすめています。
様々な支援対策も利用できるし、目的や状況に応じた施設の種類も選択できる点を挙げています。
私自身は、母を介護施設に入れた立場ですが、自分自身が介護される身になったときには、できるだけ自宅で過ごしたいと希望しています。
和田氏の視点を考慮すると、母を施設に入れたいきさつが、果たして望ましいものであったか、反省する点が多いにあります。
母の意思を無視した施設入所
母といくつか施設を見学したことはあります。その頃は、母もしっかりしており、施設に入ることなど、まったく受け入れる余地はありませんでした。
次第に、デイサービスを受け入れるようになり、ショ-トステイになじみ出した頃、特別養護老人ホームが自宅近くに建設されました。
場所もよく、できたばかりの新しい施設で、特別養護老人ホームは、費用の負担も、母の年金でまかなうことができました。いわば、すべてが私たちから見て、好都合だったわけです。
和田秀樹氏のアドバイス
和田氏は、施設を利用しようとする本人が、その施設で自分のやりたいことができるかどうかを確かめるべきだと主張しています。
そのために、体験入所して食事やスタッフの対応をチェックしてみるのがよいといいます。
「やりたいことやその基準がないまま認知症が進んでしまうと、家族が見つけた希望に沿わない施設に入居させられるかもしれません」と指摘されていますが、母の施設選びは、まさにその通りだったのです。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/columns/4478
叔父の購入した高齢者高級マンション
叔父は、何年も前に心筋梗塞で他界しました。
子どものいない夫婦でしたので、叔母が亡くなってからは、叔父ひとりになりました。
叔父は、自宅を売却し、高齢者用高級マンションを購入し、そこに移りました。
さぞ心地よい生活を送っていると思いきや、叔父から聞いた言葉は、後悔でした。
何かあったときには、病院に移る必要があり、最期まではいられないというのが、叔父の心配事だったようです。
自分の運命を暗示していたのでしょうか。
数年後、トイレでひとり亡くなっているのを、たまたま訪ねた叔父の弟と妹が見つけたそうです。
叔父は、私にしきりに「早くお母さんを安心できる施設に入れた方がいい」と言っていました。
施設選びは慎重に
テレビで、高級ホテルのような贅沢な高齢者施設を紹介する番組を見たことがあります。
様々なアクティビティが用意され、レストランはホテル並み、部屋も高級感あふれる雰囲気でした。
老人ホームのイメージとはかけ離れていて、お金を出せば、老後こんなところに住めるのかと驚きました。
確かに、自分のやりたいことを自由にできるかは、施設選びの重要なポイントなのでしょう。快適な生活を送れるかは、老後の幸せにつながりますから。
ただ、叔父の選択を考えると、最期まで安心できる施設でなければならないと思います。緊急の場合に、きめ細かい配慮の行き届く場であってほしいです。
その点では、母の利用した施設は、最期に近づいた母を、きちんと看取り体制を整えて受け入れてくださいました。
施設を自宅と思い込んでいた母にとっては、幸せな最期でした。
施設で生活したくないと泣く親を慰める子ども
母親のボロ泣きの姿
今日見た記事に、老人ホームに入れられた母親が、家に帰りたいとボロ泣きしている記事を見ました。
思わず、特別養護老人ホーム入所初日の母の姿が重なりました。
果たして、老人ホームに喜んで入居する高齢者がいるでしょうか 。
本心は、ずっと自宅で過ごしたい、子どもと一緒に同居していたい、そういう思いでしょう。
受け入れるのは、子どもに迷惑がかかるから、 自分で一人暮らしが 難しくなっているのを自覚しているから、 子どもが遠くに住んでいて、介護に手がかかるからなど、 様々な理由があるでしょう。
母の老人ホーム入所
私たち家族の場合、遠くに住んでいたこともあり、前々からケアマネージャーと一緒に、施設に申し込みをしていました。
新しい特別養護老人ホームが、近くに建設されたことがきっかけで、タイミングよく、母を入れることになりました。
申し込んでいてもなかなか入るのは難しく、入所可能になった時点で、すぐお願いしました。その時には、とても運がよいと思いました。
しかし、その頃の母は要介護2で、 記憶障害があるものの、老人ホームに入るには、まだ軽い認知症の状態でした。
入所してみると、周りはほとんどコミュニケーションが取れない高い齢者ばかりでした。
入居した当日、まだ高齢者もスタッフも数少なく、新しい匂いのする施設は、ガランとしていました。ポツンと母が取り残されたような状態でした。
まだまだこのような老人ホームに入るには、早すぎました。本当に寂しそうな母でした。正直、突然、このようなところに連れてこられて、わけがわからないような感じでした。
子どもは安心できるのか
子どもの側からすると、すべての世話を老人ホームに任せられるので、ひと安心でした。時々、面会して顔を見せ、 状況 を確かめる程度となり、 今までの葛藤からようやく解放された安堵感がありました。
しかし、一方では、本当はこんなところに入れておくべきではないという思いに責められました。
ずっとテレビを眺めているだけ、他の人とのコミュニケーションもない、何の変化もない毎日が続くだけの無表情な母でした。
施設で幸せな老後を送れるか
老人ホームを最期の場所とする場合、 「老後は幸せだった」という思いで亡くなることができるでしょうか。子どもは、母親の様子を見て、そう思えるでしょうか。
それまでに、グループホームを見たり、住居型介護施設を見たりしました。それぞれ少しずつ違いはあるものの、やはりそこに住む生活は、変化もなく活気もない印象でした。
手厚く世話をされるため、怪我もなく 安全であることには違いありません。
ただ、正直に思ったのは、ここに居続けたら、母は本当に動けなくなる、頭も使わなくなる、カラダも弱くなる、刺激もなく会話もないという危機感でした。
食べて、テレビを見て、 部屋に戻って 昼寝をするだけ。時間になれば食事が出され、カロリー計算のされた食べ物を食べるだけです。
定刻に、施設のまわりを散歩し、週数回の入浴介助が行われる。スケジュール通りの毎日です。
落ち度なく、決められたことを決められたとおりに進めていく施設、今までできていたことが、待ったなしでできなくなっていく母。
私の中では、常にもがいている自分がいました。
自分が介護される側になったとき
自分が介護が必要になった時、老人ホームに入居することを受け入れるでしょうか。
今は、絶対嫌だと思っています。最後の最後まで、自立してひとりで生活したいと思います。少しぐらい大変でも、 自宅で過ごしたいのです。
自分らしい生活がしたい、自分の自由な時間が持ちたい、楽しい時間がほしい、そういう気持ちになるからです。死ぬまでそこで生活しなければならなかったら、どんな気持ちでしょうか。
1ヶ月の入院経験ですら、自宅に戻りたくて仕方がありませんでした。至れり尽くせりのクスリづけの生活で、私は、すっかり板についた病人になりました。自分自身が、母の施設生活を実体験している思いでした。
母も、何度も施設に戻るのを拒みました。 一度自宅に連れて来て、一緒の時間を過ごすと、施設に戻りたいとは言いませんでした。なぜ、自分の家にいられないのかと、悲しい顔をしました。
そのうち、だんだんと、どちらが自宅かわからないようになりました。そして、施設を自宅だと思えるようになっていったのです。
行方不明: 介護する側とされる側
テレビ番組で、認知症のお年寄りの行方不明者が増えているという話題がありました。 外出をしたい お年寄りと 介護を する家族の苦悩をどう支援するか という問題です。
母は脳梗塞で倒れた後、後遺症は出ませんでした。しかし、父が亡くなった後、一人暮らしを始めた頃から、日常の生活に支障が出るほど、物忘れが多くなっていったようです。
実家を離れていた私が、趣味サ-クルのメンバーからの電話を受けたのはその頃です。
講師をしていた母が、サ-クルの曜日に来ない、頻繁に遅れてくるというものでした。後日、母と親しくしていた友人から、同居したほうがいいと助言を受けました。
物忘れが増える
私は、家族と一緒に実家に戻り、母と同居することになりました。
しばらくして、二階のリフォーム工事をおこなうため、私たち家族は、すぐ近くに家を借りて住むことになりました。夕食は、毎日母を呼んで一緒に食べました。
母がいなくなった
ある日、夕食が終わると、何か用事を思い出したのか、送るというのを振り切って、帰ると言って一人で外に出て行ってしまいました。
自宅に着いたかどうか連絡をしてみると、電話に出ないのです。慌てて母のところに行ってみると、まだ戻っていませんでした。
心配になって、子どもをベビーカーに乗せて近所を探し回りました。辺りが暗くなっても見つからず、交番にも連絡しました。2~3時間たったでしょうか。
どこを探しても母の姿はないので 家に戻りました。すると、母がニッコリして、少し恥ずかしそうに戻ってきたのです。
こちらは、本当に血の気が引く思いで歩き回ったのに。家に帰る途中で道に迷い、タクシーを拾って戻ってきたというのです。
まだ物忘れが頻繁に起こったものの、その頃は自分の住所を覚えていたことや、 タクシーで戻るという判断ができていたのが幸運でした。
留守中に買い物に出て行く
私が仕事から帰るよりも早く、デイサービスから戻ると、 母は買い物に出かけることがたびたびありました。
私が帰った時、母がいなくて心配になることもよく起こりました。
母にすれば、夕方買い物に出るというのは、長年の習慣でした。止めることもできず、仕方ありませんでした。
もともと、姑と一緒に暮らす生活を強いられていた母は、外出することも多く、社交的な人でした。
もう電車やバスで遠くまで行くことはありませんでした。いつでも自由に外出したいという母の思いも受けとめなければなりませんでした。
しかし、私は、母が外出するたびに、心配と不安でストレスを溜めてしまいました。
家族の理解とサポートがあったからこそ、乗り切ることができましたが、やはり介護者1人では、負担をすべて抱えることはできません。
地域の支援サービスの取り組み
番組では、地域ぐるみの支援サービスで介護される側の意向をくみながら、介護する側の支援を考えていく 取り組みが紹介されていました。
自分の親だからこそ、辛い思いをさせたくないわけですが、親をめぐって次々起こる問題を抱え込むことになるのは、 介護者の自滅を生んでしまいます。
地域の支援とともに、介護者もサービスを利用して、少しでも負担を軽減することが必要です。
介護する側も、いずれ介護される側になっていきます。両者にとって、良い方向に進んでいく社会になってほしいものです。
コロナ禍に母の記憶が失われた
母とのランチ
施設に入って以来、週末には家族で施設を訪れ、ランチに母を連れ出しました。たった1~2時間の外出でしたが、 毎週楽しみにしてくれていたようです。
普段は、施設のまわりを歩く散歩だけ、遠足などのイベントは、たびたびあるわけではありませんでした。 娘や息子にとっても、おばあちゃんと一緒に過ごすランチに出かけるのは、家族の楽しみとなっていました。
次第に、レストランで座ったり立ったりが困難になり、食べるものも喉につかえたりすることが出てきました。老人ホームの食事とは違い、消化がよなくて残すことも多くなりました。
外に出た途端、よろけて転びそうになったり、車の座席に座るのが大変になりました。だんだんと、外に連れ出すことが危険だと判断するようになりました。
施設に 定期的に顔を出す
そのうち、母を外出に連れ出すことは難しくなり、家族で施設に行って顔を見せる程度になりました。
母に顔を合わせると、お互いニコッとあいさつをするのですが、母は、自らこれといって話すこともなく、息子も娘もおばあちゃんと何を話せばいいか話題が見つからない様子でした。
ただ、顔を見て様子を確認する程度になりましたが、それだけでも母にとっては、施設の生活での貴重な時間だったと思います。
私のほうは、スタッフの担当の方から、母の様子を聞き、足りないものを確認し、帰ってくるという状態になりました。
施設での生活
コロナ禍前までは、季節でのイベントで、遠足を企画してくださることもありましたし、ショートステイの利用者さんたちのアクティビティに混ぜてもらったりしていました。
コロナ 禍、母に会えない
コロナ禍になると、施設では、人との接触が制限されて、そうした活動さえもなくなったのです。面会が制限され、 家族は、まったく顔を合わせることが許されなくなりました。
しばらくすると、施設からLINEで話ができるようになったというお知らせが来ました。早速、LINE での会話を試みました。
ところが、母は 私のことを認識できないのです。どこの誰?という顔で、付き添いのスタッフの方に「娘さんよ」と話しかけられてもボーっとして画面を見て座っているだけでした。こちらから話しかけても、黙ったままでした。
そばにいるのに、直接会うことができない、LINE に希望を持ちましたが、それも断念せざるを得ませんでした。
まったく会わないでいることが続きました。スタッフの方から母の様子を聞くと、 変わらず静かに暮らしていること、 時々、母が洗濯物をたたむ作業を手伝っていることなどを話してくださいました。
当時、志村けんさんのニュースにも心が痛みました。誰にも看取られず亡くなったというのは、 本当にショックでした。
家族と会えずに亡くなってしまう人もいるのだと思うと、しばらくの間、面会ができないのも仕方ないと諦めるしかありませんでした。
私が誰だかわからなくなる
ようやく施設での面会ができるように なり、早速、会いに行きました。まさか私のことは忘れていないだろうと思っていました。
LINEで私の顔を認識出来なかったのは、画面でハッキリしなかったのだろうと思いました。
足腰は 悪くなって行きましたが、認知機能は、そこまでひどく衰えてはいませんでした。コロナ禍前は、家族が会いに行けば、すぐにわかりました。
本当に久しぶりの面会でした。母は私の顔を見ても、戸惑って誰かわからないようでした。私が話しかけると、わかっていなくても、なんとなくその場に合わせているようでした。
私はできるだけ気にせずに、今まで通り、母に話しかけました。 毎日会っている担当のスタッフさんに対しても、初めて会ったような戸惑いを見せるということでした。
ついさっき顔を合わせても、わからなくなる状態になってしまったということでした。
母を受け入れる気持ち
私と会っても、「どなたさま?」と言われるようにはなって欲しくないと思っていました。でも、母が私を娘だと認識できなくなったという現実にぶつかりました。
内心、私は複雑な思いでしたが、母の様子は 穏やかで、今の自分自身を受け入れているように感じました。 私が誰なのかはっきりしなくとも、私に合わせているようでした。
私もその母の様子に 、問いただすことはしませんでした。自然に何もなかったかのように会話を続けました。
介護のステージをたどってきて思うこと
「 認知症が進行し、記憶や思考力などの認知機能が低下しても、嬉しい、楽しい、嫌い、腹立たしい、などの感情はずっと残っている」のだそうです。
ひとり暮らしの母との同居が始まった頃
同居を始めた頃 、強情な母とよく言い争いをしました。
・間違っていることを強情に押し通す
・こちらが言っても言うことを聞かない
・助けてあげようとしても、こだわりがあって、拒絶する
世話をしていた母と世話をされていた子の関係が逆転しているわけです。母親としてみれば、娘に世話をされること自体、受け入れがたかったのかもしれません。成長した娘であれ、子どもは子どもなのですから。
別の視点から言えば、当時の母には、それだけのエネルギーが残っていた証拠だったわけです。
認知症患者には、優しく寄り添ってあげること。「そうじゃないでしょ!」ときつく問いただしたり、「えっ、もう忘れたの? 」と突き詰めたりしないこと。
そんなことをよく耳にしました。その頃の自分にとっては、あれもこれも表面的なアドバイス でしかありませんでした。
実際、寄り添おうとすればするほど、ストレスを抱えこんでいしまうのですから。
今なら、どんな他者のアドバイスよりも、少し距離を置いて、何か自分をリラックスさせる場、少しでも自分を楽しませる時間が必要だったとわかります。
同居から施設へと移って
母の介護で問題を抱えていた頃、ケアマネージャーさんから言われたのは、「たいへんですね。でも、そのうち穏やかになる時期がやってきますよ 」ということでした。
認知症が進むにつれて、気丈な母の姿は、もうどこにもありませんでした。
母の生涯で、果たして自分の時間を楽しむことがあったのでしょうか。
遠距離介護は 可能な選択?
テレビ番組で、お母さまの遠距離介護を実施されているゲストの体験談報告を視聴しました。
「施設に行きたくない」母親の介護をどうするかという話題でした。私自身も、遠距離で介護を経験した一人です。
父母ふたりで楽しむ
父が定年退職をした後は、老夫婦で旅行に出かけたり、習い事に出かけたりと、ふたりとも、ようやく人生を楽しむことができるようになりました。
気丈な母
趣味仲間と旅行をして帰宅した父は、体調を崩し、入院後数カ月で亡くなりました 。
番組のゲストのお母さまは、小学校の先生だったそうです。気が強くて、施設に入ることを拒絶したそうです。
私の母は専業主婦でしたが、40代で始めた習い事は、その域を超え講師として人に教えるまでになりました。
自分の教室を持つようにもなり、やがて派遣講師として呼ばれるようにもなりました。
今でいう起業、自分のビジネスを立ち上げたわけですよね。そうやって人の輪を広げていったのだと思います。
母のひとり暮らし
認知症の診断を受けてからは、母を連れて、いくつか施設見学にも行きました。でもその頃の母は、プライドが高く、素直に施設を利用するとは言いませんでした。本当に、番組で話されていたゲストのお母さまと同じです。
ケアマネジャーさんのアドバイスで、介護用呼び出し電話装置をつけました。買い物やお掃除のヘルパーさんも手配しました。
お弁当宅配サービスも利用したことがありますが、夕食づくりを母と一緒にお手伝いしてくださると知って、それもお願いしました。
定期的な庭の草むしりは、別のヘルパーさんに、木の伐採は、シルバーセンターにお願いしました。
その頃は、 近所で趣味サークルの講師も続けていたので、その活動が母にとって励みでもあり、人と会う楽しみにもなっていたと思います。
遠距離介護に支障
遠距離介護に支障が出てきたのは、デイサービスやショートステイを利用するようになった頃です。施設を利用すれば、もっと楽になると思われるかもしれませんが、そのこと自体が遠距離 介護を不可能にしました。
通院も、入院も、薬の管理も、施設にすべて任せるには限界がありました。デイサービスもショートステイも、その時間だけの見守りを受けるわけで、 外出前や帰宅後の家族による管理が必要でした。
母を一人にする時間を作るわけにはいかなかったからです。施設でお世話になっている以外の時間は、常にそばにいることが求められる状態になっていました。
特別養護老人ホーム入所
特別養護老人ホームへの入所の段階で、 離れていてもほとんど心配ない状態になりました。施設にすべての介護を任せられるようになったからです。
クリニックも、施設に併設しており、お医者さんが定期的に診察に訪れました。歯医者さんや美容師さんの訪問もありました。入院しなければなかった時も、施設に手続きをお任せすることができました。 介護する側としては、 負担が減り、問題が少なくなりました。施設に入所することができれば、要介護のレベルにかかわらず、遠距離介護は可能になります。
母の衰え
介護される側の母は、施設に入所してから、目に見えて衰えが進んで行きました。施設では、すべてのことを整えてもらう生活で、 自分で動く必要がなくなったからです。
台所仕事もありません。洗濯もありません。 歩いて買い物に行くこともありません。人と会話をすることも減りました。地域のサークルで講師をすることが生きがいになっていたはずですが、それもなくなりました。
介護される側の視点
介護される側から の視点で考えた場合、施設での生活は、安心安全です。しかし、変化のない毎日は、皮肉にも認知症の進行を助長して行きました。
次第に足腰も衰え、車椅子の生活になりました。食も細っていき、入院治療の必要な状態になりました。
面会が可能になって様子を見に行くと、病院では、ほとんど病室を出ることもなく、黙ってただ一日中ベッドに横になっていたようです。
余計なこと言うと、迷惑かけるから黙ってるの。
と、繰り返し、私につぶやくのです。ひとりでじっと我慢して、入院生活を送っていたに違いありません。
奇跡的に、病状が回復して、長年親しんだ施設に戻ることができました。久しぶりに、スタッフの皆さんと顔をあわせ、安心した様子でした。
数日後、穏やかに息を引き取りました。
母の顔を思い出して
長年、施設で生活をさせることになって、母に申し訳なかったという思いが残ります。
母が元気なうちに、もっともっと、一緒に楽しむ時間を持ってあげられればよかった…。
施設に入ることになった母は、黙って、すべてを受け入れるようになって行ったのです。
ありがとね。
施設に顔を出す私を、いつも静かに見送ってくれる母のことばでした。
そして、退院後、ずっとこうして見送ってくれる母の「ありがとね」を、また聞いていくことになると思っていました。
でも、その日が最期の「ありがとね」でした。
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