父とのかかわり
父は、仕事人間で、休日はいつも本を読んでいました。 口数が少なく、あまり甘えることはできませんでした。
入院
退職後の父は、精力的に趣味の活動や 母との温泉旅行に出かけました。そうした中、同窓会の旅行の後、突然の入院となりました。
輸血から最期の日
連絡を受け、 実家に戻りました。末期の肺がんで、放射線治療も見込みなく、最後は、点滴でのみ、命をつないでいました。輸血後、苦しみ出し、早朝、亡くなった父を看取ったのは、私だけでした。
父の想い出、退職後の活動
子供の頃の父の想い出は、いくつかあります。 無口で厳しく、近寄りがたい面もありましたが、実は、非常に子煩悩で愛情を注いでくれていたと思います。
子どもの頃の想い出
お土産
出張の後、必ずお土産を買って来てくれました。そして、それはほとんどの場合 、父と妹と私が一緒にやることのできるボードゲームでした。今でもそのゲームは 実家にしまってあります。
ドーナツ作り
父は、ドーナツ作りにはまったことがあります。父オリジナルのドーナツでした。ドーナツ用のしゃくしも買って、作ったドーナツは、大きくてとてもおいしかったのを覚えています。
休みの日
休みの日は、ほとんど静かに本を読んでいました。タバコが好きで、部屋中煙で白くなるくらいでした。今思うと 子どものカラダにも悪かったわけですよね。
夏は海、冬は雪遊び
夏は、海水浴に連れて行ってくれたり、セミやクワガタを一緒に捕まえたりしました。冬は、雪遊びをしました。父と大きな雪だるまを作ったのを覚えています。
夏休みの自由研究·工作
夏休みの自由研究を、一緒に計画してやったり、工作を一緒に作ったりしました。私は、その工作や研究を提出するのが、内心心配でした。
父が夢中になってしまって、手を出し過ぎたからです。私自身の作品ではないように思えて後ろめたかったのです。
趣味、ペットの世話
器用で、色々なものを作りました。植物·動物ともに好きで、草木の手入れややペットの世話をよくしていました。
梅酒·かりん酒作り
アルコールは、体質的に受け付けなかったようですが、梅酒やカリン酒をよく作っていました。飲むとすぐ赤くなり、たくさんは飲めなかったのですが、作るのは好きだったようです。
庭の手入れ
庭作りも好きでした。 花を植えたり、野菜を作ったりして、庭をフルに使っていました。父が亡くなってからは、誰も手入れをしないので、庭は雑草だらけです。
食べ物の好き嫌い
食事作りは一切せず、家事は、母の仕事でした。そのくせ、好き嫌いが激しく、母も苦労したと思います。
麺類は嫌い、お芋は嫌い、餃子、シュウマイも嫌い、パスタ類も嫌いという状態で、必ず、肉か魚のどちらかと、ご飯とお味噌汁でした。外食の時は、必ずカレーライス でした。
チワワの世話
妹が飼っていて、結婚のときに実家においていったチワワを、父がずっと世話をし続けました。
散歩に連れて行ったり、食べ物を食べさせたりするのは、父の仕事でした。最後は、老衰でなくなり、かわいがっていたチワワがいなくなった後、とても寂しがっていました。
父の苦労
甘えられるような父ではありませんでしたが、穏やかで、いつも静かな存在でした。亭主関白で、一家の大黒柱そのものでした。
4人きょうだいの長男で、一人暮らしの祖母の世話や、祖母の家、田んぼ、畑の管理で苦労したと思います。実家は、住んでいた場所からはかなり遠方にあったからです。
退職後、趣味の生活
退職後は、今までやりたかったことを 次から次へとやりました。まるで自分の寿命が短いのを知っていたかのようでした。
旅行、絵画、同窓会の交流、 将棋、TVの時代劇視聴、タバコとパイプづくり。タバコをパイプで吸うようになっていて、そのパイプを自分で作るのが趣味でした。
退職後、退屈することはなかったようです。同期の中には、仕事を続ける人たちもいましたが、父は、仕事を完全にやめて、自分の趣味に走りました。
今から考えると、生き急ぎのような状態だったかもしれません。とにかく、やりたいことを時間を惜しんで、次から次へとやっていた状態です。
絵画は、自分の展示会も開きました。 将棋は、テレビでいつも見て研究したり、 パソコンのソフトを買ったりと、結構のめり込んでいたようです。
退職後、何をやったらいいかわからない人も多く、好きなことや打ち込めることを見つけられるように地域コミュニティの活動に参加してきっかけ作りをする場合もあります。できるだけ孤立しないようにという意図です。
退職前は、仕事一筋であった父ですが、前々からやりたいことがたくさんあったのだと思います。
迷うことなく、望んでいたことを楽しんだ父でした。これから、もっともっと楽しみたいと思っていた矢先の体調不良で、思い残すことも多かったことでしょう。
父の肺がん発覚から入院生活
同窓会旅行から帰宅後
父は退職後、精力的に旅行にでかけていたようです。大学時代から何十年も続く同窓会に参加し、その旅行から帰宅するやいなや、具合が悪くなり医者にかかりました。
レントゲン検査結果
「レントゲン写真に白い影が見える」これが医者の診断でした。風邪かと軽い気持ちでいたのが一変した瞬間です。
突然の入院
突然の入院となりました。
私達家族に知らせが来たのは、入院が決まってからです。
肺がんでしたが、すでに手遅れの状態でした。がん細胞は全身にまわっており、手術での摘出は無理でした。
何十年もの間、タバコを吸い、パイプを使うようになってからは、どれだけ吸っているのかもわからないほど、ヘビースモーカーでした。
肺がん放射線治療
放射線治療が開始されてから、どのような状態だったのかは、わかりません。私達家族は海外にいて、すぐに病院に駆けつけることができませんでした。
私達の結婚に反対した父母と和解し、孫娘との初対面も果たしました。一番喜んでいたのは父に違いありません。
そんな年老いた父母を離れ、海外に行ったことが悔やまれました。
それまで元気だった父が、もしかしたら、私のせいでストレスを抱え、がんが発生したのではないかとさえ思えました。
母が看病
帰国してみると、母が一人で入院のこと、父の看病すべてを抱え、動いていました。
正直なところ、驚いてしまいました。てっきり、車で数時間のところにいる妹が、世話をやいているものと思い込んでいたからです。
父に対面すると、もう起き上がれないほど弱りはて、食事も取らずに点滴だけで命をつないでいる状態でした。
時間が経過するよりも、父のがん進行のほうが、急速に進んでいるような感じさえ受けました。
点滴だけの日々
几帳面な父は、手帳に点滴の量、体温、血圧など、毎日記録を取っていました。その手帳は、今も捨てずに取ってあります。
手が動かなくなるまで、書き続けており、最後の方のページは、字にならないほど乱れていました。
夜、自分で食べ物を口に入れて、むせ返したこともあるようです。
見回りの看護師に、水がほしいと訴えようとしても、声も出ずもがいているうちに、看護師は出ていってしまう状態だったようです。
食べるものも食べられず、点滴も打てる場所がないほど、限界に近づいていました。
必死に生きたかった
父は、必至に生きたかったと思います。食べ物もなんとか食べたかったと思います。でも、自分の意思ではどうにもなりませんでした。
なぜ、流動食を与えることをしなかったのか、なぜ意思を自由に伝えることができない患者に、もっと寄り添ってもらえなかったのか。病院への不信感も募りました。
泊まり込みの看護
患者ひとりひとりに対応できない状況を知り、脱水状態の父の世話をするため、泊まり込みの看護を決めました。
母も、体力的には、もう無理でしたし、夜中の対応が必要だと、強く感じました。
それからは、父が欲しがるたびに、氷を口の中に入れてやりました。昼間は、父の好きなアイスを買って、口に与えました。
本当は、もっと早く、そばにいて、要求に応じてやる必要があったのです。
入院してから、ほんの短い期間で、これほど状況が変わるのかと思うほどでした。
突然看取った父の最期
きょうだいの集合
父のきょうだいたちが父の様子を見に病院に集まりました。もう、治療の手もつきている状態でした。
一瞬でしたが、自分の運命を自覚した父の目に涙がこぼれたのを見ました。
ほんの二ヶ月前には、同窓生たちとの旅行を楽しんでいたのです。自分がここで死ぬことを、どうやって受け入れればいいのでしょう。一番信じられない思いだったのは、父本人だったでしょう。
遺言書
きょうだいたちは、父に遺言書を用意し、ペンを持たせ、やっとの思いで自筆の遺言書を書かせました。
起き上がることはもちろん、ペンを持つ手も力が入れられず、震えました。なんとか補助して、妻に全財産を相続させるという内容に署名させました。
意識もうろう状態
モルヒネのせいで、ほとんどうつろうつろと眠ることが多くなりました。それでも、目を覚ましているときは、こちらの話しかけにも応じました。
クスリのせいで、喉がカラカラになるらしく、氷を口に含むよう求めました。「爽」というアイスもほしがりました。口の中で甘いアイスがふんわりとけて、口の中をひんやり潤してくれたのでしょう。
輸血
もう限界の父に、輸血をするということが、医者から持ち上がりました。
危篤状態の父に、最後の望みでした。しかし、これが命取りになったのです。
拒絶反応を起こし、苦しみ始めました
最後の痛み止め
輸血の後、一晩中腹痛を訴え続け、モルヒネもまったく効く様子がありませんでした。
早朝、緊急事態で医者を呼び出しました。
とにかく、すがる思いで痛みを何とかしてほしいとお願いしました。
その後、医者はその行為によって、次に何が起こるかを予期していたのではないかと思います。
最期の看取り
父のいる部屋に戻ると、父は口を開けたまま、呼吸をしていませんでした。
苦しみ抜いたあげく、亡くなくなりました。
緩和ケアの必要性
余命わずかな患者に対して、生命を引き延ばすための措置や治療が妥当な判断なのでしょうか。
自宅療養と看取りの可能性
長年、多くの看取りにかかわってきた東郷清児医師は「自宅で逝くということは、最後まで自分が主人公として人生を生き抜くこと」とその意義を強調しています。
人生の終盤で大きな決断をしなければなりませんが、それは、「病院や施設で最後を迎えるか、それとも、慣れ親しんだ家で最後を迎えるか」だといいます。
8割近くは、前者の選択をしていますが、東郷医師は、 「『最後は家で』こそ、理想的な逝き方だ」と断言しています。
病院の医師は、病気を治療することに専念する一方、在宅医は、「どうすれば最期の時まで人間らしさを保って生きてもらうことができるか」という人生観に着目するのだそうです。
解決できるものとできないもの
同じく、長年ホスピス医として看取りの現場を見てきた小澤竹俊医師は、「自分自身や自分の人生を否定する患者さんが多く、よく耳にするのは、『迷惑をかけたくない』ということばなのだとそうです。
こうしたいと思っても、できないことは受け入れて行くべきですが、解決できること、変えられることに対しては、自分はどうしたいかを考えて、決断する勇気が必要だと強調します。
治療方法等について医師ともっと話し合うべきだった
父の入院については、多くの後悔が残っています。
入院当初、母がひとりで対応していたので、状況をつかむまでに時間がかかりました。
父の夜間の状況をもっと知るべきでしたし、医師や看護師と話す機会を設けるべきでした。
介護を学ぶべきだった
介護の知識や経験があれば、最後は点滴だけになっている父を、自宅に戻して介護することができたのではないかと考えます。
簡単なことではなかったかもしれませんが、あの状況で、最期は、好きなように心地よく過ごしてもらうことができたのではないか、それが一番の後悔です。
あの段階で、輸血に同意し、苦しませてしまう結果になりました。
地域介護支援の助けを求めるべきだった
自宅での介護は、初めから無理という気持ちがありました。
様々な条件が整わなければ難しく、大抵の場合、病院で最期の看取りが行われている現状があるのは確かです。
ただ、自宅療養が不可能とは言えなかったかもしれないのです。
自宅療養について、地域介護支援, 地域医療等、情報を得たり、助けを求めたりすることもできたのかもしれません。
母の看取りに活かせた
父が亡くなった後、 母には絶対同じような苦しい思いはさせたくないという気持ちがありました。
父のことについて、様々な後悔が残りましたが 、それを学びとし、母の最期は穏やかに逝ってもらいたいと願いました。
入院してそのままかと思われましたが、母はずっと慣れ親しんだ施設に戻ることができ、静かに息を引き取りました。
前日まで、テレビを見てスタッフさんたちと一緒に笑っていたそうです。
老衰で、苦しむことなく自然に亡くなったので、最期はよかったと思っています。
延命措置を拒絶
父は、自分の意思で胃ろうを断りました。お腹に穴を開けることも、鼻からチューブで栄養を注入することも、はっきり嫌だと自分の意思を示しました。
食事は喉を通らなくなっていたのか、配膳はされるものの、毎回、手つかずの状態だったようです。
結局、私が病院を訪れることができたときには、点滴のみでした。
食べたい思いはあった
母が、父の好物の甘いお菓子などを差し入れており、夜、それを食べようとして咳こむことがあったようです。
食べ物を自ら拒否していたわけではなく、確かに食べたいという思いはあったのです。
嚥下障害で食べられなかったのか
補助があれば、食べることができたのではないか、未だに疑問が残ります。
父は、まったく、食事を与えられることなく、点滴のみでもうろうとした日々を過ごしました。
介護の知識と経験
父が亡くなってから、自分には介護の知識や経験がまったくなかったことを悔やみました。
ずっと年月が経ってからですが、海外に再び戻っている間に、介護資格を取り、短期間施設の仕事を経験しました。
寝たきりで意識のハッキリしない高齢者であっても、適切な姿勢を取り、きちんと注意を払って補助すれば、嚥下食を与えることはできるのです。
延命処置について
父本人は、延命措置を選択することはしませんでした。私自身も、ただ命を引き延ばすことには否定的でした。
延命措置には、人工呼吸、人工栄養、人工透析があるそうです。いずれも、医療技術の進歩によって、生命を維持させる行為です。
延命措置のメリット
メリットとしては、本人が長く生きられることと、介護者の身体的負担が軽減されるということがあるようです。
延命措置のデメリット
デメリットは、費用がかかることと、介護者の精神的負担がかかることだそうです。
ある高齢者の選択
私が入院したとき、末期食道がんの方と同室でした。海外に滞在中だった娘さんが帰国し、お母さんの世話をすることになりました。自宅での延命措置を自ら選び、退院を決断されました。その選択は、看護に当たる娘さんのためということでした。
人それぞれの考えがあり、意思があるのだと、その時思いました。