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はじめに
妹と私は、子供の頃、とても仲のいい2歳違いの姉妹でした。
しかし、 結婚以降、様々な 出来事 を通じて、お互いのかかわり にヒビが入り、距離が遠ざかりました。
そのままの関係は長いこと続き、顔を合わせて会話を交わしたのは、妹が亡くなる前、本当の最期の別れでした。
最期の会話
父の入院や母の介護では、姉の私だけが負担を背負っているという思いに駆られました。音信不通となっていたある日、突然、妹の家族から連絡がありました。
長い年月を経て会えたのは、妹ご家族から食道がんを患っているという知らせを受け、会いに行った時でした。
何年ぶりかで顔を合わせましたが、それが最期の妹との会話になってしまいました。
小さい頃の想い出
小さい頃は、遊ぶのも一緒、叱られるのも一緒でした。お人形遊びやままごとをよくしていました。
学校に行くのは集団登校だったので、朝はいつも一緒でした。
妹が入学仕立ての時は、休み時間ひとりぼっちでいないか心配で、様子を見に行ったりしました。
押し入れの中でおうちごっこ
今でもよく覚えているのは、押し入れの中で懐中電灯をぶら下げ、一緒に遊んだときのことです。
私と妹は、おうちごっこに夢中でした。その間、押し入れの外で何が起こっていたか、まったく知りませんでした。
なんと、母が青ざめて子どもたち(私と妹)を探していたのです。家中、探してもどこにも姿がない、外に出て辺りをかけずり回っていたらしのです。
心配していた母が、押し入れから明かりが漏れているのに、ようやく気づきました。
ふすまを開けてみると、ちょこんと二人、仲良く静かに遊んでいたのです。
二人の顔を見て、母はどんなに安堵したことか。後から考えると笑い話です。
母に叱られる
母に叱られたのは、大抵、きょうだいげんかです。仲良く遊びましたが、その分、ちょっとしたことでのけんかも多かったのです。「言うこと聞かないなら、お灸すえるよ」と母に追いかけられたこともあります。
学校から帰ると、近所の友だちが集まって鬼ごっこをしたり、自転車で遊んだりしました。いつも集団登校している仲間だったので、学年もバラバラでした。
たまに、時間を忘れて遊びに夢中になり、家に帰るのが暗くなりかけたこともあります。そんな時は、帰宅が遅すぎると、玄関の鍵がかけられて、しばらく中に入れてもらえませんでした。
母は、かなり厳しい親でした。
私も妹も、中に入れてもらうまで泣きわめきました。
今の子どもたちでは、考えられないかもしれませんね。
思春期の頃
思春期の頃になると、妹と私の間に競争心のようなものが生まれた気がします。はっきりしたものではなく、漠然とした感覚です。
妹と私の比較
母は、裁縫が上手で、いつもおそろいの服を作ってくれました。
大きくなると、いつも、姉の私には地味な色、妹には明るい色でした。それが、とても気になって、母からもらった服を着たくないと反発するようになりました。
母の友だち(今でいう「ママ友」ですね)が集まると、私と妹が比較されて話題になるのが嫌だったことも、よく覚えています。
祖母の同居
祖母の同居は、家庭内にいい影響を及ぼしませんでした。絶えず、嫁と姑のこじれたかかわりが存在し、孫である私たちも、祖母に対していい関係を持てませんでした。父は、母と祖母の間に挟まれた辛い立場でした。
ストレスを抱えた日々
妹とのかかわり、家庭内のいざこざ、学校のことなど、様々なことが影響していたのだと思います。
睡眠や食生活が乱れ、ストレスを抱える日々を送りました。体重も異常なほど減りました。自分自身の思春期は、メンタルの病んだ時期だったと思います。
結婚後、お互いの環境は変わったものの、妹の子どもたちと私の娘の年齢が近いこともあり、家族ぐるみで行き来がありました。
妹のところに家族で泊まりがけで遊びに行ったり、妹の子どもたちを引き取って、遊びに連れて行ったりしました。
疎遠になったきっかけ
その頃、私たち家族は海外にいました。その間、妹との連絡は手紙等で行っており、良好でした。
お互いの結婚後、距離は離れましたが、妹だけは私のよき理解者であり続けてくれました。
父の入院時
父が突然入院したと連絡を受けたときも、私が帰国するまで、全面的に妹に任せているつもりでした。
しかし、帰国してみると、年老いた母が、すべてのことを背負っていたのです。
父が入院したことがきっかけで、そんな妹と疎遠になって行きました。
父のきょうだいたちが集まったときも、妹は、顔を出した程度で、残してきた子供たちのことで戻らなければならないと言って、帰って行ってしまいました。
お嫁に行った身であり、実家のことに対しては、自由に行かない部分もあったのかもしれません。
でも、その時は、私自身も幼い娘を夫に預け、離れて来ていたので、妹の行動には納得が行きませんでした。
父の亡くなった後
父が亡くなった当日も、看取ったのは私ひとり。母も妹も、その場にはいませんでした。
その後のお葬式、死後の様々な手続きも、母と私とで処理しました。
母の介護をめぐって
母と同居するようになってからも、負担を背負う役目は、私と私の家族でした。
妹は、子どもたちを連れて、旅行のついでに立ち寄る程度でした。そして、年に1~2度贈り物をしてきました。それだけです。
一度、妹が突然、母に連絡をよこし、その出迎えに出た母が家に戻れなくなって探し回ったことがあります。
それ以来、妹の訪問や贈り物を受け入れることをやめました。
私のほうは、仕事もあり、子育ても重なって、母も目が離せない状況に陥り、大変でした。
妹のところに母を預けることも話し合いました。しかし、環境を変えることは、母にとって事態を悪化させることにもなりかねませんし、そう簡単にできることではありませんでした。
妹の自由な生活と私の不自由さ
子育てを終えた妹は、時間的にも金銭的にも、余裕のある生活をしていました。
旅行好きで、友だちと海外旅行に出かけることも多かったようです。
その頃には、私も妹も、それぞれの生活を送り、接触もなくなりました。
私は、なぜ自分だけが負担を抱え、自由を奪われているのか、不公平だと感じていました。
父の危篤状態の時、私は、娘を夫に任せて、ひとり病院に寝泊まりすることがなくなるまでの生活になりました。
父が亡くなってからは、母の介護の問題です。自分が、すべての犠牲を負い、そのために、私の家族にも影響を受けている。
正直なところ、これ程不公平な状態で、相続のことも気になり始めました。
妹との最期の会話
そんな妹が、食道がんでいつ亡くなってもおかしくないと連絡を受けたのは、何年も経ってからのことです。
変わり果てた姿に、驚きました。妹は、私の顔を見るなり、涙を流して「おねえちゃん、ごめんね」と謝りました。
私に母の介護を任せて、妹自身は、好きなように過ごしていたという思いからだったかもしれません。
妹は、私に、いろいろ募る話があったようです。思うように言葉にならないのが、もどかしそうでした。
何年も会わずにいたのに、時間の空白を感じませんでした。こんな状態になる前に、もっと早く知らせてほしかった。
あの時、妹と会った瞬間から、何年ものわだかまりは消えていました。また、以前の仲の良い姉妹に戻るはずでした。
妹は、話したいことが、心の中に山ほど詰まっているようでした。でも、思うように声にならず、会話をすることが困難でした。
時間を忘れて、お互いと思いを吐き出すことができたら、きっと今までの空白が取り戻せたでしょう。
話しきれませんでした。遅すぎました。もっともっと時間が必要でした。
人の命は永遠ではありません。
時間も待ってはくれません。
もう少し早く会っていたら、お互いの心の溝が、少しでも縮まったかもしれません。
私自身のこだわりも問題でした。もっと早く、許す気持ちを持つべきだったと思います。
何となく心残りで、翌日の朝、また病院を訪ねました。でも、妹は、寝入っていて、その様子だけ見て帰りました。
体力の衰えている状態にあって、睡眠も妨げられていることも多く、眠ることのできている時間は、貴重だったからです。